立松和平さんのインドの旅やブッダへの思い等。仏教、ブッダ入門としては良いのかもしれませんが、あまり印象に残らず。
ブッダに惹かれる人は多いですね。私も一時期、よく本を読んでました。仏教の開祖というカリスマ的な位置づけだからでしょうね。しかしながら、読んでもなかなかわからない、というか、響かないことが多かったです。四諦、とか、八正道、とか、普通のことにしか聞こえなくて。これと比べて、例えば禅僧なんかがいっていることはものすごい深みを感じるのですが。
ただ最近またこうした本を読んでいて、12縁起、とか、おもしろい、と思います。苦の根本は無明、つまり、根本的無知、というか、誤った見解、勘違いから苦は生じている、といったとこでしょうか。では何を誤っているのか。Wikipediaの無明の解説を見ると、”我というものが存在するという見解(我見)が無明である。”だそうです。つまり、本当は自分なんてものは何もないのに、あると思ってしまうことからくる勘違いが全ての苦悩の元凶である。最近のアドヴァイタの人たちがいっていることと共通してますね。自分なんてものはない、幻想でしかないのに、あると思っているから苦悩が始まる。アドヴァイタの人たちは、悟りを開くなんていっても、そもそも悟りを開く人、なんてものは最初から存在しないんだ、といったことをよく言っているように思います。
ブッダや仏教、とくに上座部仏教のイメージはひたすら修行をして、過去の悪い因縁を落とすために善行を積む、といったような印象があるのですが、こうして12縁起の解説を見るとちょっと違うイメージを持ちます。どちらかというと、最近のアドヴァイタの人たちがよく言っている、勘違いから目覚めよ、といったところに近い印象を受けました。
このあたり、”自分がある”という思い、ここに人生の根本的な問題があるんだろうな、と最近よく思います。これは人は生まれつき持っているのもではない。子育てをしているとよくわかります。小さい子はあまり客観的な自分、という思いはない。その分幸せで、楽しそうにしている。今に生きている。それが知識や教育により、世界観が生まれ、自分と言う固体が有限の時空間の中に閉じ込められているという思いが生まれ、苦悩が生まれてくる。だけどこの思いは、ジョーン・トリフソンの言い方では、”地図”でしかない、ということに気がつくのが重要だと思います。
クリシュナムルティが何かの本で、人間は自らが作った牢獄の中に閉じ込められて苦しんでいる、というのを何かでいっていたような気がします。この牢獄というのは、上に書いたような、客観的な世界の中で自分が存在している、といったような認識ではないでしょうか。これは人が生まれ、育っていく中で自然に生まれてくる。今の世の中では、人は自然に自分の監獄を作っていく。こうした世の中に問題意識を持ち、クリシュナムルティは自らの学校を設立したんだろうな、と思います。
このあたりをうまく説明している、と思って私が好きなのが、ハーディングの次の動画。
”私たちが人間クラブに参加するとき、私たちは約1メートル、自分の源泉との接触を失い...深いトラブルに陥っているように思えるのです。"。
”人間クラブ”というのはうまい表現ですね。恐らく人は3歳くらいから”人間クラブ”に入り、監獄に閉じ込められていくのだと思います。そこから出られた人が、覚者、と呼ばれるのではないかと思います。