記憶の索引2

東京の普通の会社員の日記。本や映画の感想、自然観察、日々の思い、など。 興味は科学、数学、脳と心、精神世界、植物、育児、教育、ビジネス、小説、などなど。

錯覚する脳

錯覚する脳: 「おいしい」も「痛い」も幻想だった (ちくま文庫)
錯覚する脳: 「おいしい」も「痛い」も幻想だった (ちくま文庫)前野 隆司

筑摩書房 2011-09-07
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”受動意識仮説”を提唱するロボット工学者、慶応大学教授、前野先生の著作。"受動意識仮説”は他の著作 脳の中の私はなぜみつからないのか?で読んでいたのであまり目新しい内容はありませんでしたが、そこにはなかった”五感というイリュージョン”という章は印象的でした。五感というのは脳が作り出しているイリュージョンである、として、具体例として著者は”会話相手の話し声が相手の口元から聞こえる”という事実にある日気がついて愕然としたそうです。単に空気の振動を受けているだけなのに、脳が相手の口元に音声のクオリアを生じさせている。確かに考えてみると不思議な現象です。また視覚に関しても、本来目が電磁波を受けているだけなのに、脳は様々な目前の物体のクオリアが、あたかもそれぞれの場所でその色と陰影を持っているかのように、鮮やかに作り出されている。確かにこれも不思議です。 音声に関しては私は本書を読むまで気がつきませんでしたが、視覚に関しては私も以前から不思議なもんだなと思っていました。視覚の元は目の網膜という平面的なものが電磁波を受けているだけである。つまり、遠くの建物も、目の前のパソコンも、同じく電磁波が網膜に届いている現象です。それに対して人間は両眼視差などの情報を元に距離を計算し距離感というものを生み出し、あたかも三次元の世界が存在するかのごとく脳内に世界像を生み出している。そしていかにも奥行きがあるかのようなクオリアを生み出している。不思議です。これは著者の言うように、脳内のイリュージョンなのでしょう。 著者は第三章、”主観体験というイリュージョン”で、主観に関して以下のような悟りに達しています。 P.224 意識は自然の自立分散的活動のモニターにすぎない。たまたま、一つの個体に一つの我があるように感じられるに過ぎないのだ。のっぺらぼうの自然の一部が、どういうわけか、ただ一瞬、「我」になったという奇跡を堪能し、堪能した後は、また、のっぺらぼうの自然に戻るだけだ。それでいいではないか。 確かに、私という主観、これも様々な情報が脳のクオリアを生み出す能力により生み出されたイリュージョンなのかもしれません。脳はただの情報を実際に存在するがごとくクオリアを生み出す能力がある。この能力により生み出されたイリュージョンが”私”なのかもしれません。著者の主張は、アドヴァイタのグルたちが繰り返し主張する”私は存在しない”ということに通じる気がします。