記憶の索引2

東京の普通の会社員の日記。本や映画の感想、自然観察、日々の思い、など。 興味は科学、数学、脳と心、精神世界、植物、育児、教育、ビジネス、小説、などなど。

世界観

ウィルバーの無境界にこんなことばがありました。 「大人になると自分は頭の中に住んでいるとさえ感じられるようにある。頭蓋骨の中のミニチュア人間のように感じるのだ。」 無境界 最近これをよく思います。私はちょうど幼児の育児真っ最中なのでよくわかりますが、人間は当初の状態では周りのことはよくわかっていない。それを親がいろいろと教え込んでいく。空間的なことでいえば、お前は東京に住んでいて、東京は日本にあり、日本は地球の中でここにあり、地球は宇宙の中で太陽を回っていて、等々。時間的なことでいえば、君は今何歳で、パパママは何歳で、おじいちゃんは何歳で、人は大体xx歳くらいで死んで、などなど。幼児はこうしたことをなかなか理解できないのですが、徐々に覚えていく。こうした教え込みの結果、人は頭の中に時間と空間の4次元空間をつくり、自分をその中の小人として意識するようになる。まず世界があって、その中に自分が在る。ゲームの中のキャラクターのようなイメージで自分を捉える。そして何か虚しさを感じるようになる。これがクリシュナムルティがいう監獄なのかもしれません。 例えば我々は、常に自分の年齢を意識して、今何歳だからもう年で、あとxx年くらいすると老人で、あとxx年くらいすると死ぬのか、などと考えて虚しくなる。が、こうした時間意識は生得のものではなく(実際2歳くらいまでの子供は持っていない)、こうした時間意識は知識としては理解してもそれにとらわれないで毎日を生き生きと過ごすことも可能である。 ただやはりこうした世界観は生来のものではなく、教え込まれたものであるということは育児をしているとよくわかります。本来の人間の世界の捉え方はこの逆で、世界ではなくまず自分が在る。自分の中にいろんなものがやってくる。自分の中に、自分の肉体や世界が現れてくる。時間も自分が意識していなければない。アドヴァイタのグル達がいっていることは、こうした叩き込まれた世界観を捨てて本来の人間の世界感に戻れということなのかもしれません。もちろんそれは幼児に戻れという知識としての客観的世界観は持ちつつもそこから脱却する、といったようなことなのでしょう。 この世界観の転換で私が一番わかりやすかった本は、ティモシー・フリークの「気づきの扉」でした。短い本にエッセンスがまとまっています。 気づきの扉