記憶の索引2

東京の普通の会社員の日記。本や映画の感想、自然観察、日々の思い、など。 興味は科学、数学、脳と心、精神世界、植物、育児、教育、ビジネス、小説、などなど。

図解雑学 現代思想

図解雑学 現代思想 (図解雑学シリーズ)図解雑学 現代思想 (図解雑学シリーズ)
(2004/03)
小阪 修平

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    図入りの明快な解説がお気に入りのこのシリーズ。これも良かったです。小阪 修平さんの哲学解説はわかりやすくて好きです。 特にウィトゲンシュタインの解説はわかりやすいですね。確かに哲学的な問答は収束しない、結論がでないことが多いと思いますが、それはそもそも問や言葉の定義に問題があることがあるのでしょう。 ウィトゲンシュタイン言語ゲームの発想は面白いですね。確かに言葉というのは定義が先にあるのではなく、やり取りが先にあるのだと思います。例えば仕事の現場などでも新しい用語が出てくることがありますが、それはその場に応じた適切なことば、として、ぱっとおかれて、それがメンバーの中で広がっていく、そのあと改めて定義を考えてみるとなんだっけ、的なことはよくあります。こうした意味で、私、ということばは言語ゲームの中で意味を持つが対応した実体はない、という解説はわかりやすいです。 ハイデガーはどうもイメージが湧きませんでしたが、この解説で少しイメージが湧きました。「世界・内・存在」というのは、デカルト的な世界観とは全く違う世界観を提示しているのですね。 あと最近ブームなニーチェですが、ニーチェが現代哲学の起点といっても良いほど大きな影響を与えていることがわかりました。 以下、印象に残った点。
  • デカルトの哲学は世界を二つの実態に分けて、その組み合わせで物事を考える哲学だった。デカルトは、考えるもの(弑する実体=精神)と延長をもつもの(モノ、自然)の二つを実体とした。このとき、精神と自然を分けて、分けた後にその関係を考えるというデカルトの二元論が誕生した。P.20
  • ニーチェが僧侶の思想として批判したのは、この現実とは異なったところ(背後世界)に何かすばらしいものがあると説くすべての思想である。P.29
  • 人間が存在する際のもっとも基本的なあり方は「世界・内・存在」(せかい・ない・そんざい)だとハイデガーは言う。...「世界の中」で存在をとらえる見方は、まずモノがあり、モノは空間のなかにあるといったデカルト以来の見方とは180度異なっている。...たとえばコップは、私が水を飲むためのものとして存在している。世界の中で私たちが出会うモノは、抽象的な空間の中に存在する抽象的なモノではなく、「~のために」という意味を持った存在なのである。...このように「世界のなかにいる」とは、いろんなモノが意味を持って人間にあらわれてくるということなのである。p.82
  • ハイデガーの「世界・内・存在」の見方に影響を与えたのは、当時生物学者エクスキュルがとなえた環境世界という概念だった。環境世界とは、生物を行動する主体としてとらえ、周囲の環境を、その生物にとってどういう意味をもつのかという観点でとらえようとしたことばである。...例えばダニは木から下を通る動物のにおいで落下し、軟らかい皮膚をさがし血を吸う。エクスキュルによれば動物の匂いや皮膚の軟らかさが、世界の中でそれだけが目立っている徴なのである。P.85
  • ウィトゲンシュタインは哲学は無意味だと言い切った。例えば、死や存在の意味や人間の倫理について語ることは、対応する事実をもたず、「語り得ぬ」ことを語っている。P.97
  • 言語論的転回...言語の意味や言語によって名指されるものが先にあるのではなく、言語のやりとりが先にあり、このやり取りの仕方を精緻に分析するのが哲学の役割だとする転換である。例として「私」ということばは、じつは何の対応物も持たない。「私」は「私」の身体でもないし、私という人物の同一性をさすのでもない。「私がウィトゲンシュタインである」といっても、「私」という言葉がウィトゲンシュタインという名前と同じでないことは自明である。...これまでの哲学は「私」という言葉の背後に何らかの実体や超越論的な主体を想定してきた。だが人々が言語をつかって日常生活を営んでいる中で「私」ということばが必要不可欠なものとして使用されているということのほうが重要なのである。...ことばの意味するものが先にあるのではなく、ことばのやり取りがさきにある。P.104
  • 現象学実存主義構造主義の違いは、一言でいうと、構造主義が人間の意識から出発しなかったことである。現象学は「この私」の意識に明瞭にあるものから出発し、実存主義は「この私」の意識の存在から出発した。それにたいし構造主義は、人間の行動は無意識的な構造によって支配されていると考え、構造を分析することを目指した。P.142
  • 伝統的な哲学では見かけ(現象)と本質(真理)の区別を重視してきた。たとえば本当の自分を求めることは、自分の中で本当の自分と見せかけの自分を区別し固定することである。だがドゥルーズによればそういった発想は同一性の思想にとらわれた発想である。何かを何かの代理と考える発想自体が、本質と現象を区別し、その区別を固定することにほかならない。...ドゥルーズによってとらえられた世界は、固定された区別をもたず、ただ質の違いと強度の違いしかない、純粋な差異の広がる世界である。P.180
  • これまでの世界のイメージ→あくまで重要なのは本質であり、世界を知ることは、いろんなものの本質をしることだ。ドゥルーズニーチェ)の世界のイメージ→純粋な差異が無限に広がる。そこにあるのは質や強度の違いだけだ。P.181