「私」は脳のどこにいるのか (ちくまプリマーブックス) (1997/10) 澤口 俊之 商品詳細を見る |
- 人の祖先であるアウストラロピテクス類は、およそ500万年前のアフリカで、チンパンジー類との共通祖先から湧かれてサバンナに進出し、一方のチンパンジー類の祖先は森に残った。サバンナへ進出した当初ノアウストラロピテクス類は「好奇心が強く二本足走行するチンパンジー」みたいなものだったが、やがて道具や言語を開発・獲得し、...3倍近くもの大脳皮質を発達させることになった。
- 二元論と一元論-心脳論は大きくこの二つに大別される。そして、数千年もの間、この対立が続いてきたといってよい。...二元論では心と脳は別のもの、別の過程であり、心は脳から独立していると考える。いっぽうの一元論では、脳の活動と心は同じものであり、同じ過程を別の言葉で表したにすぎないとする。...「心・意識は脳の(特殊な)活動である」という本書の立場は、むろん、はっきりとした一元論である。p.48
- 現代でも、まともな哲学者や思想家の一部の方も二元論的な考えを展開しているので、驚いてしまう。...もちろん哲学者の中にも一元論に立つ方は多いが、中には、とんでもない(と、私には思える)一元論もある。観念論からの一元論である。観念論では、世界は-脳を含めて-すべて心の産物・表彰だと考えるので、一元論の一種だとみなしてよいが、これは脳科学での一元論とはまさに対照的な一元論である。カント哲学に代表されるドイツ観念論の全盛時代ならともあれ、現代にそんな一元論など存在するはずもないと私は思っていたのだが、あるとき「無脳論」という考えを知って面喰ってしまった。有名な心身論哲学者である大森荘蔵氏が提起したものだが、「無脳論の可能性」という論文で「脳が無くても心はあり得る」という趣旨の論を展開した。P.50
- 自我をふくめた心が脳から独立した「何か」と考えて、脳と自我の相互作用説を展開しているのは哲学者だけではなく、脳科学者にもいる。代表的なのはエックルスである。彼は抑制性神経細胞の発見でノーベル賞も受賞した(1963年)著名な脳科学者である。その彼が、脳と独立した何か(魂・自我)が脳と相互作用するという説を唱えたのである。P.52
- これで数千年にわたる論争・対立にもケリがついたと思いたい。「意識」の問題を脳レベルで解明しようとしている代表的な科学者クリックは、「哲学者たちは2000年という長い間、ほとんど何も成果を残してこなかった」と喝破したが、私もまったく同意見である。そして、これは私の溜息交じりの愚痴になるが、哲学者や思想家というのはつくづく「暇」だと思う。P.67
- 「意識それ自体」というものはない。これは哲学の議論でも指摘されてきた。フッサールは「意識とは常になにものかについての意識である」と主張した。これを哲学用語では「意識の志向性」と呼ぶ。そして意識の志向性を中心教義の一つの軸として「現象学」という一大哲学流派を気づき、サルトル、ハイデッガーらの実存主義哲学などの祖となった。P.77
- 「心は脳の活動である」という前提を正しいと思っている。しかしこれを言ったらおしまいかもしれないが、「So What?」という言葉が頭を離れない。「自分自身を知りたい」という問いに、これで答えられたという気持ちにはとうていなれないのだ。自我の謎というのはこうした明確な話ではすまないのではないか。あの若き日に私を捉えた「自分とはなんなのか」という問いは、何か深い底に吸い込まれるような気持ちとともにあったはずだ。P.212