現代哲学の名著―20世紀の20冊 (中公新書) (2009/05) 熊野 純彦 商品詳細を見る |
- 言語とは命題(文)の総和であり、そして命題とは、事実であれ虚構であれ様々な事態を写し取る模型にすぎない(ウィトゲンシュタイン) P.48。
- ニューロンの活動はマグカップの色の感じそのものではないし、コーヒーの香りそのものではない。いったい、クオリアは物理的過程とどのような関係があるのか。...この問題は脳科学や心の哲学などの分野で「クオリア問題」と呼ばれ、さかんに議論が行われている。P.67
- そのつどの状況のもとで、おのれがいかにあったかということを引き受けつつ、みずからを超出しておのれ自身の固有の可能性である死へと先駆的にかかわることが、われわれの本来的なありかたなのである。こうして我々は、時間のうちにあるのではなく、むしろ時間そのものとしてある。P.96 ハイデッガー
- 西洋哲学はデカルト以来、心身二元論の呪縛に悩まされてきた。デカルトは精神と身体、精神と身体、意識と対象がどのようにして結合し合うのか、理解できなくなってしまったのである。...その問題に対する現代の回答の一つは、人間の精神活動を、脳を中心とした神経生理作用に還元する実在論的・客観主義的な経験主義である。...もう一つの解答は、人間の神経生理作用の存在を事実上認めつつも、それらを<意味>として捉える純粋主観が権利上、あるいは超越論的に要請されるというものである。...そのような純粋意識を前提とする観念論をメルロ-ポンティは主知主義という。そこではしゅちあは、すべての経験を「...についての<私>の意識対象」に還元してしまう。それによって、身体も単なる<私>の意識対象にすぎなくなる。...メルロ-ポンティ現象学の重要な成果は、以上の主知主義と経験主義といった「極端な主観主義と極端な客観主義」の対立の克服を企て、共通感覚の場を復活させようとしたおとである。...身体はもはや単なる客体・対象ではなく、主体でありかつ客体であるという両義的な存在なのである。P.101 メルロ=ポンティ