21世紀 仏教への旅 中国編 (21世紀 仏教への旅) (2007/04/26) 五木 寛之 商品詳細を見る |
- 著者が最初に行くのは、浙江省の港町、寧波(ニンボー)市。ここは最澄も空海も、栄西も道元も降り立った港である。
- 仏教では「面授」ということを大切にする。面授とは、師と対面して直接教えを授かること。理屈ではない大事なものが肉声や顔の表情、声などになる。そういうものを感じ取っていく。
- 道元は「空手還郷」と宣言して帰国した。経典はいっさい持ち帰らず、仏道だけを持ち帰るという決意である。それまで中国で学んだ僧たちは、貴重な経典をできるかぎり持ち帰ったものだった。道元は一巻の経典も持ち帰らず、身一つで凱旋した。
- 中国仏教として”禅”という思想が起こったのは6、7世紀頃。場所は広州周辺。達磨禅師に始まり、第六祖の慧能という異才によって花開いた。広州は北京、上海に次ぐ中国第三の都市である。
- 達磨大使は熱心な仏教徒であった武帝と会った。武帝は、自分は即位して以来、寺を建て、民を救い、写経をし、仏像をつくった。これによって、どんな功徳が得られるか、と尋ねたところ、達磨大使は、なんの功徳もありません、かたちに現れた善行は真の功徳といえません、と回答した。
- 六祖慧能は、貧しい母子家庭に育ち、教育もいなかったが、偶然「金剛経」を聞き、こころ打たれ仏門を訪ねた。見習のような身分で、ひたすら米を炊いていた。しかしながら五祖の弘安は日々ひたすら作務にはげむ慧能の姿を見て、慧能を後継にしようと決めていた。恐らく慧能は禅の天才だったのだろう。
- 弘安の弟子に非常に優秀な神秀がいて、後継者の第一候補だった。弘安は慧能を後継とするために一計を案じ、寺のもの全てにおのれの禅の境涯を偈に詠んで提出させた。神秀は、つねに心身をみがいて汚さないようにしなければならない、という偈を出した。これを聞いた慧能は、人本来無一物。塵や埃のつきようがない、といった偈を出した。この偈を読んで、弘安は慧能の偈を採択した。
- 弘安は慧能に衣鉢を継がせるに当たって、トラブルを避けるためにすがたを隠すように進めた。追っての慧明は慧能を見つけ、衣鉢の返却を求めると慧能は持っていって下さいと置いたが慧明は持ち上げることができない。慧明は恐れて、あなたが五祖から受け継いだ教えはどのようなものですか、と尋ねたところ慧能は、「あなたが善を思わず、悪を思わないとき、どれがあなたの本来のすがたでしょうか」と答え、慧明は忽然と悟りを開いた。
- 一方、衣鉢を継ぐことのできなかった神秀は禅院を去り、北上して長安、洛陽あたりで布教を始めた。これを北宗禅という。厳しい修行を旨とし、時間をかけて次第にさとりを達成するという、達磨からみれば正統派である。少しずつ向上していく道を選ぶことから、漸悟禅とも称される。
- 道教の大家である福永光司さんにおると、中国は「南船北馬」といい、二つの文化と生活の国である。大地に生きる北方中国と、海と水に深い関わりをもつ南方中国である。北は儒教で南は道教的な色彩が強い。儒教的な基盤を持つ北方で神秀が受けれいられ、道教的な南方で慧能の禅が広まったのは納得がいく。
- 慧能は、あなたが五祖からゆずりうけた法はどんなものですか、と尋ねられ、私は何も法を受け継いでいない、私は解脱を論ぜず、見性を論ずるのみだ、と答えた。これはインド伝来の仏教にとってはおどろくべき飛躍である。仏教思想の革命とさせいえる。従来の禅が段階的に悟りへ至る漸悟禅であれば、慧能の禅はそのようなプロセスは必要ないという頓悟禅である。慧能はもともと出家もしていなければ、修行もしていなかった。
- 慧能の大鑑禅師での法話を中心にまとめた経典が六祖壇経である。これはいわば初めての中国産の経典。このマンガ本は四千万という発行部数。
- 慧能の漸悟禅は、日常のあらゆる仕事のなかからさとりを得る。これは出家主義のインド原始仏教とは異なる。
- おそらく慧能の漸悟禅(南宗禅)は南方の道教の思想と習合することで確立したのだろう。道教の無為自然は慧能の本来無一物と合う。