記憶の索引2

東京の普通の会社員の日記。本や映画の感想、自然観察、日々の思い、など。 興味は科学、数学、脳と心、精神世界、植物、育児、教育、ビジネス、小説、などなど。

入門 哲学としての仏教

入門 哲学としての仏教 (講談社現代新書)入門 哲学としての仏教 (講談社現代新書)
(2009/04/17)
竹村 牧男

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著者は東洋大学教授の仏教の先生。存在、言葉、時間といった哲学としての切り口で仏教を語ります。唯識、華厳思想、空海の思想などの紹介がありまあまあおもしろいです。いつも思うことですが、知的好奇心の満足としておもしろいのですが、こういう大学の先生が解説する仏教というのはあまり心には響かないです。仏教の解説者、だからなんでしょうね。それよりもパパジが語る信心銘のがはるかに心に響く。 覚醒の炎 でもまあ、大学の先生というのは宗教者ではなく研究者、教育者なので当然といえば当然ではあるのですが。 印象に残った点。

密教は自分たちの仏教以外を、顕教と呼んで区別する。この密教顕教の違いは、いわゆるお釈迦様が説いたのが顕教、お釈迦様を超える根本的な仏(大日如来)が説いたのが密教。このことにともなって、顕教は相手に応じた方便の教えであり、言葉はわかりやすいものであり、しかし密教は真実をそのままに説いたもので、言葉が秘奥でたいへんむずかしいという。P.77 ・昔、趙州という有名な禅のお坊さんがいた。趙州はある修行僧に、「問う、十二時中、如何が心を用いん」と問われて、「汝は十二時に使われ、老僧は十二時を使い得たり。」と答えたという(趙州録)。おまえさんは十二時に使われているが、おれさまは十二時を使っているぞ、というのである。P.236

密教は神秘的で不思議な魅力がありますね。真実は通常の言葉(論理)では表現できない、というのが仏教での基本だと思いますが、禅はそれを論理を超えた不可思議な問答で表現(禅問答)、密教は通常の言葉とは違う言葉(真言?)で表現、というところでしょうか。 趙州さんのこのことば、以前、日本の悟りを開いたというお坊さんの本(名前は失念)で同様の記述を見かけました。悟りを開くと時間に使われるのではなく、時間を使えるようになるとのことです。道元禅師など典型的ですが、仏教では時間について語る人、多いですね。 時間に関して私が印象的だったのは、ジル・ボルト テイラーのこの本。 奇跡の脳 左脳が破壊された時、時間が止まったそうです。通常の人間は左脳優位な状態になっているのが、悟りを開いた禅僧は左脳をコントロールしている、といったところなのでしょうか。