記憶の索引2

東京の普通の会社員の日記。本や映画の感想、自然観察、日々の思い、など。 興味は科学、数学、脳と心、精神世界、植物、育児、教育、ビジネス、小説、などなど。

覚醒の炎

覚醒の炎―プンジャジの教え覚醒の炎―プンジャジの教え
(2007/10)
不明

商品詳細を見る
書評でかなり評判の良いパパジの本。絶版ですがどうしても読みたくなり購入しました。 噂に違わず凄い本。やはりパパジの言葉は強烈なパワーをもっています。考えるほど、求めるほど真実から離れていく、と繰り返し語ることばを聞くたびに外に求める力が収まっていくような気がします。 あと印象的なのは、パパジが信心銘という禅の著作を取り上げ絶賛しているところ。パパジの教えというのは禅と似ていると思っていましたが、やはり同じ境地なのでしょうね。信心銘ではパパジが折に触れ語っている、”話せば話すほど、考えれば考えるほど、ますます真理から遠ざかるばかり(多言多慮、転不相応)、といった内容もあります。 あと、パパジがどこかで言っていた、自由への渇望が起こることは非常にまれで貴重なこと、カルマである、という点。確かに自由への渇望がおき精神世界を求めるというのはごく一部の人たちでしょう。私は少年時代からこうした渇望が強く、あれこれ本をあさっているうちにパパジやクリシュナムルティにめぐりあいましたがこれは非常に幸運なカルマであったのかもしれません。感謝したいと思います。 以下印象的な点。ほとんどのページが強いパワーに満ちていますが。
  • 「考えているのは誰か?」と尋ねることは思考過程を止め、あなたは本来の自己、自然な状態、空なる純粋な源に戻る。これがあなたの本性だ。...そこにとどまりさえすれば、恐れは消え去る。そこから一歩外に出れば、このサンサーラ、世界という現れに足を踏み入れることになる。 P.22
  • 身体は活動し、観察者はそれとは別に存在する。身体は自我を通さず、直接指示を受けるのだ。「私は行為者だ」という観念はそこにはない。行為者が存在しないとき、その人に行為は存在しない。P.46
  • 心はあなたに活動していて欲しいのだ。心はあなたが愚かなことをするよう推奨する。なぜなら心は忙しくしていたいからだ。...ただしばらくの間、全ての精神活動を止めて、何が起こるか見てみなさい。P.59
  • もし一生の間に数分でも静かにしていることができれば、平和は訪れるだろう。...ただ静かにしていなさい。これが方法だ。P.61
  • 「私は自由だ」とは「対象物に飛びついて、それと結びつこうとする思考過程から私は自由だ」を意味している。その状態にあれば何ものもあなたの自由を妨げ平和を破ることはできない。誰もこのことをあなたに告げなかった。...人生ではじめて、三千五百万年という輪廻転生の中で初めて、あなたはこの秘密を手に入れたのだ。P.117
  • この「私」という想念が根源にある想念だ。すべてはここから起こる。ここから束縛が、ここから無知が、ここからサンサーラがはじまるのだ。この「私」という想念に集中すれば、あなたは想念の源に帰る。そこでは想念そのものが消え去るのだ。P.121
  • あなたがこの「私」を疑えば、世界の現れは「私」とともに消え去る。そのとき何か他のものが、すべての顕現だけでなく、「私」の消滅をも見守る観照者が残るのだ。P.122
  • 今、あなたは自己本来の純真さに戻りたがっている。何か新しいものを得ようとしているわけではない。そうではないかね?..あなたを賢くしたものすべてを捨て去れば、自己の本性、本来の自己に帰り着くのだ。P.136
  • 自分自身に何も押し付けなければ、純真さは戻ってくる。ただ静かにしていなさい。P.137
  • ただ座りなさい。あなたの真の本性が自然に現れるのを許しなさい。P.137
  • 今、この瞬間を最大限に使いなさい。この瞬間、あなたは欲望の対象物ではなく、自分自身の真我を見ることができるのだ。この瞬間は取り戻せない。真我の王座に座る前に、もう少し快楽を享受しようと先延ばしにすれば、自分を見失い流されてしまうだろう。ふたたびチャンスはこないかもしれないのだ。次の瞬間ではなく、前の瞬間でもない。今、この瞬間に自己本来の姿をみることができるのだ。... これを達成するためには、学ぶことも、修練することもない。ヒマラヤに行く必要もない。ただこの瞬間、今、ここさえあればそれで十分だ。....先延ばしは心の働きだ。P.140
  • 私は誰にも仕事や家庭から逃げ出すことを勧めない。..仕事をするかしないかは、自由とはまったく関係がない。あなたがどこにいようと、ほんの数分を自分自身のために使えば良いだけだ。P.146
  • 「どのように」という言葉があなたを真我から切り離す。その言葉には触れないほうがいい。P.152
  • 何であれ想念が起こったとき、それはあなたをどこか他のところへ連れて行く。...想念があなたを悩ませていたのは、それが感覚的快楽の対象物へ向かって走り出すからだ。もしこの傾向を止めることができれば、それが自由と呼ばれるものだ。それを止められなければ、世界と苦しみは現れつづけるだろう。もしこの想念の連鎖を止められなければ、あなたは果てしない輪廻転生の輪に囚われたままだろう。どちらでも好きなほうを選ぶがいい。P.160
  • 真我は呼吸より身近にある。...それは努力を要さず、常にそこにある。P.163
  • 話すことも考えることもやめなさい。それが真の知識への道なのだ。P.173
  • 何であれあなたが語ること、それはあなたから分離したものだ。「真我」という言葉さえ、あなたが語ることのできる一つの概念にすぎず、実在ではない。あなたはあなたから離れたものについてだけ語ることが出来る。だがそれはそれほどにも近くにあるため、あなたは見ることも語ることもできない。P.176
  • 一つの想念が消え去った。そして次の想念はまだ来ていない。もし想念の合間に現れるギャップを見てその中に留まれば、どんな苦しみもありえない。どんな苦しみもそこには入り込めない。ただそれを見なさい。私たちが苦しむのは、これに注意を払わないからだ。P.243
  • 最初に起こる確信は「私は身体だ」という概念だ。それは単なる確信、一つの概念でしかない。...「私は身体だ」と考える代わりに、「私は意識だ」と自分に言いなさい。...あなたは自我が人生をとりしきり、自我が決定したことを行動に移すと考えている。これが無知と呼ばれるものだ。それはスクリーンの上に投影された画像との自己同一化であて、画像が映し出されているスクリーンとの自己同一化ではない。...あなたはそのスクリーンであって、現れては消え去るイメージではないのだ。...この想像上の「私」に人生を管理させるなら、あなたは身体が行うすべての行為の責任をとり、あなたが為していると想像するすべての行いの報いを受けなければならないだろう。P.258
  • なぜ「私」という想念を起こす必要があるのか?努力や非努力という想念の起こらない場所、「私」という想念さえ起こらないその場所にとどまりなさい。そこでは全てが静かだ。それはそれほどにも静かなため、言葉は妨げになる。私たちが話すと言葉が現れ、真我の沈黙の流れを妨げてしまう。P.303
  • あなたが決定をするということはない。ただそうすると思っているだけだ。何か他のものが、あなたに物事を為すように駆り立てている。ただそれに気付いていないだけなのだ。思考過程に忙しくしている間はそれに気付くこともないだろう。...それは即座に起こる。P.316
  • あなたが目的地の途上にあるという概念を落としなさい。P.318
  • 心の消滅はあなたが心配しなければならないようなものではない。あなたはそれなしでも十分生きていけるのだ。...言葉が現れると、それはあなたを真我から連れ去ってしまう。P.334
  • これが心だ。...それはビジョンや快い内的状態を与えて、あなたを助けているようなふりをする。...あなたは自分の心を管理し制御していると考えている。だが、実際はこころがあなたを管理しているのだ。...あなたは殺される前に、この虎を、この途方もない力を乗りこなさなければならないのだ。P.354