記憶の索引2

東京の普通の会社員の日記。本や映画の感想、自然観察、日々の思い、など。 興味は科学、数学、脳と心、精神世界、植物、育児、教育、ビジネス、小説、などなど。

「死ぬのが怖い」とはどういうことか

「脳の中の「私」はなぜ見つからないのか? 」で受動意識仮説を主張する前野先生の本。前野先生の本は平易な語り口ながらも切れ味鋭くおもしろいです。

 

本書では「脳の中の「私」はなぜ見つからないのか? 」といった本と同じく、自分や心などもともとないのだから死は怖くない、といったことが主張されています。「本当は、心などないのだ。あるように感じているだけなのだ。だから、これが失われたって、何も減らない。もともと何もないのだから。」といった主張は本当に禅のお坊さんのようですね。一休さんの道歌を思い出しました。

 

我ありと思う心を捨てよただ身の浮き雲の風にまかせて(一休骸骨より)

はじめなく終わりもなきにわが心生まれ死すると思うべからず(一休骸骨より)

 

最近の流行のアドヴァイタのグルたちがいっていることとも似ています。これが真実なのでしょう。

 

また、同じ論調で、自由意志も幻想だ、と主張します。我々は結果を見ているだけで、意思決定は既に意識下で行われているのだと。

これ、よくいろんなところで聞く主張であり、恐らく真実なのだと思いますが、どうも日常の感覚からすると違和感があります。意思決定において意識は大して役割を果たしていないとすると、我々が普段意思決定に悪戦苦闘している感覚は何なのだろう?会社に行くと朝から晩まで意思決定に終われ、pros/consなどを整理して汗かいて意思決定する。どうもこうした作業は意識して行っているとしか思えない。もっと単純な、何を食べよう、とか、寝よう、といった意思決定は確かに無意識のうちに決定されているような木はするが、こうしたもっと高度な意思決定は意思決定に至るプロセスが明瞭に意識されて、しかも人に説明できるほど(というか、説明できなければいけない)決定に至るまでのロジックが明確にされていないといけない。これが無意識なのだろうか?であれば、なんとなくボーっとしていても仕事が進むような気がしてしまうのだが...。このあたりがどうも腑に落ちないのです。