無思想の発見 (ちくま新書) (2005/12) 養老 孟司 商品詳細を見る |
自我、意識といったものは実体でなく機能であるのに、多くの人は実体のような思い込みを持っている、ということだろう。もともと実体がないのだから無くなるのだって怖いことではない。著者は自分がいいたいことが仏教経典にすでに書かれていることがわかり驚いたとのことだが、確かに著者の主張は仏教思想に似ている。上記主張は一休さんの道歌に通じるものがある気がする。 はじめなく終わりもなきにわが心生まれ死すると思うべからず 本来もなきいにしえの我れなれば 死に行くかたも何もかもなし 何となく我々は自分、私、といったものに実体があるような気がしている。昔の人は神、妖怪、悪魔、幽霊などの存在を信じていたのだろうが、現在は信じている人は減っているだろう。そのようにもっと脳科学などが進化した未来では、「昔の人は、自分、といったものが存在すると信じていたんだよ」といっているような時代がくるかもしれませんね。
- じつは「同じ」というのが、意識の特徴なのである。意識は「同じ」という「強い機能=はたらき」である。目が覚める、つまり意識が戻ると、たちまち「同じ自分」が戻ってくる。...それなら、「同じ自分」なんて面倒な表現をせず、「自分」でいいということになり、いつの間にか「自分」という概念に「同じ=変わらない」が忍び込んでしまう。
- 意識が戻るとは「電燈がつく」ようなもので、そのときには誰も「電燈が戻ってきた」とはいうまい。この場合、電燈が脳で、「明かりがつく」のがいs木である。意識は「はたらき」つまり機能で、機能はモノのような実体ではない。
- 自我も意識だから、はたらきのはずだが、実体に近いものと感じている人が多いのではないか。というより、普通は実体だと信じられている。...神経科学者の中には「自我なんてない」と考える人が増えてきている。その紺根拠は、脳機能が意識に先行する例がしられるようになったからである。
- 実存的主体としての自分なんか、ない。そう述べた。しかし、その意味での「自分がある」という文化は、世界の人々の2/3を占める。既に述べたように、一神教の世界、最後の審判がある世界では、自分があることが古くからの前提だからである。それに対して仏教の世界では、無我ということになる。
- 「唯脳論」を書いた後、自分の書きたかったこのと用紙が、じつは原始仏教の経典といわれる「阿含経」に書いてあったと知って、一驚したことがある。
- とぎれとぎれの意識ばかり、信用するんじゃない。そもそも意識が途切れている間の責任なんか、意識はとってくれないんですからね。そのくせ「途切れている」間を全部すっとばして、意識は自分が連続くしていると思い込んでいる。それが死ぬときに本当に切れてしまうと想像すると、怖がったり、あわてたりする。べつに毎日切れてるんだから、いまさら何を怖がるのか、と私は思うが。
- 「変わらない私」とは、「情報としての私」ということである。なぜなら、「変わらないもの」とは、情報のことだからである。