記憶の索引2

東京の普通の会社員の日記。本や映画の感想、自然観察、日々の思い、など。 興味は科学、数学、脳と心、精神世界、植物、育児、教育、ビジネス、小説、などなど。

無境界

無境界―自己成長のセラピー論無境界―自己成長のセラピー論
(1986/06)
吉福 伸逸、ケン・ウィルバー

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トランス・パーソナル心理学の大家、ケン・ウィルバーの著作。ウィルバーの著作は学術的で難解なものが多いということだが、本書は比較的一般向けにかかれている著作であるということで、トランス・パーソナル心理学というものに興味を抱いたので読んでみた。 想像以上に凄い本だった。随所にクリシュナムルティラマナ・マハリシ、禅僧のことばが引用されていることからわかるように思いっきりアドヴァィタ系の本である。それを非常に理路整然と記述されている。アドヴァィタ系の話をこんなに理論的に深く解説している本は始めて読んだ。ウィルバーの知性がほとばしっている。一度で消化しきれないので何度も読みたい本である。 例えば、クリシュナムルティが良くいっている、”真実へ到達するためにはあなたには何もできない。偽りを偽りと見たときだけに自然に真理が訪れる”といったようなこともそれが何故なのか、理論的解説がされている。また、よく禅僧などがいっている、”過去や未来は存在しなく現在しかない”と言う点も説明されている。 和書は1986年初版とのことだが、こんな本が昔からあるのであればもっと早く読みたかった。 1.序章
  • 「自分自身」ということばを吐くときは、自分であるものと自分でないものとのあいだに境界線を引いていることになる。
  • 大人になると自分は頭の中に住んでいるとさえ感じられるようにある。頭蓋骨の中のミニチュア人間のように感じるのだ。
2.一半
  • 境界とはそれが内側と外側を区切るものである。だが、内側対外側という対立は我々が円の境界線を描くまでそれ自体のなかには存在しない。
  • 問題は対立を互いに分離、分断された和解不可能なものと見る傾向にある。例えば売買はまったく不可分なものである。単一の商取引という一つの出来事の両端に過ぎないのだ。これと同じ形で、すべての対立は互いが同一であることを暗にしめしている。対立は他方なくして存在しない。
  • ゲシュタルトによれば、我々が「光」と呼ぶものは、実際には暗い背景に浮かぶ光の形である。明るい星の輝きを知覚するとき、わたしが実際に見ているのは、個別の星ではなく、「明るい星+暗い背景」の場全体もしくはゲシュタルトである。
  • それと同じくして、苦痛との関連なくして快楽を自覚することは絶対にできない。もちろん、この瞬間、快楽を覚えているかもしれないが、そこに不快と苦痛という背景がないとしたら、それにきずく事はできないだろう。つまり、一方を好み一方を嫌うからと言って、それを隔絶しようとしても無駄なのだ。
  • 対立するものを分離し、例えば苦痛のない快楽、死のない生、等に執着してしまうと、全くリアリティのない幻を追いかけることになる。
  • 世界中のあらゆる神秘的伝統において、対立の幻想を看破した人が「解放された人」と呼ばれる理由がこれだ。
  • エスはいった。あなたがたが二つのものを一つにするとき、内部を外部、外部を内部、うえをしたとするとき、そして男と女を一つにするとき、あなた方は王国に入るだろう。
4.無境界の自覚
  • 目を閉じて実際の聞くというプロセスに携わって欲しい。鳥のさえずり、車のきしむ音、まわりのあらゆる音に気が付くはずだ。だが、これだけの音があるなかでどんなに注意深く耳を傾けても、一つだけ絶対に聞こえない音がある。聞く人を聞くことができないのだ。それはそんな人は存在しないからである。我々が「聞く人」と呼ぶと教えられてきたことは、実際には聞く体験そのものであり、誰も聞くことを聞きははしないのだ。現実には音の流れがあるだけで、その流れは主体と客体に分断されてはいない。そこには境界はないのである。
  • 私が一本の木を見るとき、「木」という一つの体験と「木を見ている」というもう一つの体験があるわけではない。そこにあるのは、木を見ているという単一の体験だけである。
5.無境界の瞬間
  • 「永遠にふれること」が非常にたいへんなことに思える理由の一部は、われわれが一般に「永遠」という言葉自体の真の意味を誤解していることにある。われわれはふつう、永遠とは非常に長い時間で、何億、何百億年と果てしなく続いて行くものだと想像してしまう。だが、神秘主義者の理解は、永遠とは果てることのない時間の自覚ではなく、それ自体まったく時間をもたない自覚である。
  • 過去の記憶は現在の体験としてのみ存在する。「あなたは真の過去を見ているわけではない。過去についての現在の痕跡を見ているのだ」アラン・ワッツ。
  • 時間とそれにまつわるあらゆる問題にわれわれが束縛されているのは、一つの大きな幻想にすぎないのだ。いま以外の時はない。あなたが唯一体験しているのは永遠の現在である。だが、一般にほとんどの人が、現在の瞬間を永遠の瞬間とは感じない。われわれは現在の瞬間を恐らく1,2秒しかつづかない過行く現在、やせ細った現在と感じている。現在の瞬間を境界付けられた限られたものと感じるのである。過去と未来にはさまれているように思うのだ。事実と記憶/象徴の混合をとおして、われわれは時のない現在に一つの境界を設け、それを分断して過去対未来という対立に仕立て上げ、時間を過去から「過行く現在」をとおって未来へと向かう一つの動きととらえる。永遠の領域に境界を持ち込み、自らを閉じ込めてしまうのだ。
  • 過去と未来があまりにも現実的に思えるために、サンドイッチの中身である現在の瞬間は、薄いスライスにされてしまい、われわれのリアリティは中身のない両側のパンだけになってしまう。
  • 記憶としての過去がつねに現在の体験であることがわかれば、この瞬間の後ろにある境界は崩れ去る。同様に、予期としての未来が常に現在の体験であることがわかれば、この瞬間の前にある境界は崩れ去る。われわれの前後に何かがあるという重荷が全て、突然、即座に、完全に消え去る。
9.超越的自己
  • 自分を悩ます感情、気持ち、思考、記憶、これらは見ることのできるものである。ならば、それらは真の見る者、主体性ではありえない。それらが真の自己ではないとすれば、そこに同一化し、しがみつき、自分自身を縛ることを許す理由などどこにも存在しない。
  • 自分の超越的自己を見出そうとする必要はない。それは不可能である。眼は眼自体を見られない。必要なのは偽りの同一化を脱落させていくことだけである。第一に必要とされているのは-見ることができるものは見るものではありえないーというただ一つの理解である。
10.究極の意識の状態
  • 自分の行うことが全て一つの抵抗、目をそらし、立ち去ることであることを看破した時点で、もはや自分を明渡す以外、選択の余地はなくなってくる。しかし、あえてそうすることはできない。また、あえてそうしないこともできない。どちらも新たな立ち去る行為だからである。
序章で述べられている"自分"に関して、なるほどと思った。自分とは何か、とよく思いますが、それは自分と自分でないものの境界線をどこに設定するか、と定義づけるというのは新鮮だ。 2章で議論されている対立の幻想もなるほどと思う。クリシュナムルティがよく快楽と苦悩はコインの両面だ、といっています。その意味がよくわからなかったがこのように解説されるとわかる気がする。確かに暗闇がなければ星がみえないように、苦悩がなければ快楽を自覚することはできないのだろう。ウィルバーの解説は非常に明快でわかりやすい。 またここで言っていることはPapajiも同様のことをいっている。 Wake up and Roar 5章 無境界の瞬間で説明されている、現在しかないという説明はわかりやすい。禅の僧侶など、現在しかない、という方は多いのですが、このウィルバーさんの説明が一番理解しやすい。確かに想起としての過去と予期としての未来は現在の思考の体験だ。