記憶の索引2

東京の普通の会社員の日記。本や映画の感想、自然観察、日々の思い、など。 興味は科学、数学、脳と心、精神世界、植物、育児、教育、ビジネス、小説、などなど。

人生観

中学生くらいの頃から何故か宗教や哲学に興味を持ち、わからないなりにその手の本を読みまくるようになった。般若心境、禅、ニーチェ実存主義などの本を読む中学生は珍しいだろう。そして大学生になってクリシュナルティを知り夢中になった。。その後社会人になってからはアドヴァイタ系の本を読んでいる。

なかなか理解がむずかしくわかった、とはならないのだが、この手の本はすごく重要な気付きを与えてくれ、読んでいて良かったと思う。なんというか、単純に思い込んでいる”自分”というものに対する幻想をあまり信じなくなっている。

中学生くらいのころから私は”悟り”というものに非常にあこがれていた。悟りをひらきたかった。たぶん最初に”悟り”へのあこがれを持ったのは、ヘルマン・ヘッセのシッダールタを読んだときだろう。悟りを開き光明の世界が開ける。そんな憧れをもっていた。その憧れはその後もずーっと続いていた。だが、アドヴァイタ系の本を読んでいて、そんな、ある一人の人がいて、その人が光明を得て、幸せな人生を送る、というのも1つのストーリーだ、という気がしてきた。こういう、客観的な世界があって、独立した自分がおり、自分を外から眺めるような感覚、まるで小説や漫画を読むような感覚で世界をとらえる感覚、これが誤りなんではないかと思うようになってきた。

上手く言えないが、こういう世界を客観的にとらえる捉え方、これは本を読んだり、学校教育をうけるうちにだんだんできてくる感覚だろう。そしてクリシュナムルティがいう”自らが作った牢獄というのがこれではないかと思う。

実際は独立した存在である”私”なんてものはなく、”自分”という感覚が薄くなっていくのが悟りではないかと思う。ある人物がいて、その人がある日”悟り”を開く、、と思っている時点で誤っている気がする。

こういう感覚は世の中の常識から大きく外れており、ほとんどの人からは理解されないだろう。多くのは確固とした個人というものが存在すると思っている。そして社会のルールは個人が存在するという前提で建てられている。そして前世や来世などの幻想を持っていたりする。そもそもそんな”個人”なんていうものはない、というのがアドヴァイタの人たちの教えだと思う。